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  • 伊勢漂民 大黒屋光太夫物語
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郷土資料館 - 伊勢漂民 大黒屋光太夫物語

1. はじめに

日本とロシアが正式な接触を持ったのは、今から二百年前、根室、松前を舞台に繰り広げられたのが最初である。
それは、寛政4年(1792) 9月のことで、エテカリーナ女帝の命を受けたアダム=ラックスマンが使節となって、漂流民を引き渡すとともに、日本の交易を求めて根室に来航したことである。
この時の漂流民こそ亀山藩領南若松村(現鈴鹿市南若松町)に生まれた大黒屋光太夫その人である。

大黒屋光太夫は、加藤曳尾庵の『我衣』によると、宝暦元年(1751)南若松の当時船宿を営んでいたとされる亀屋に生まれ、名を亀屋兵蔵と称し、8才の頃父(四郎次)を亡くしたようである。
その後、江戸に奉公に出て、江戸大傅馬町中心に隆盛を極めた伊勢商人の活躍の場に身を置くこととなり、そして、運命の伊勢白子を出帆となる前に国許若松に帰り、大黒屋に養子に入るとともに光太夫を襲名したとある。
しかし、それにしても確たるところは未だ不明であり、商家大黒屋に生まれ、後に亀屋へ養子に入ったとする以前からの説も否定できず、今後の文献資料等の発掘を待つしかない。

なお当時、亀屋・太黒屋・戎屋など相当の店が立ち並ぴ参宮客で賑わったとされる南若松の港(船着場)付近は、打ち続く地盤沈下と浸触により、光太夫の生家を含め現在では海中あるいは海浜に没してしまっている。
南若松に船若場が存在したことを物語る「すぐ船場」の道標が、今も若松小学校の校庭に保存されている。

2. 漂流七ヶ月

天明2年(1782) 12月9日、伊勢白子(紀州領)の港から廻米、木綿、雑貨などを積み込んだ神昌丸(一見勘右衛門所有)は江戸に向けて船出した。
船頭は大黒屋光太夫、船親父は三五郎、総勢十七名の乗組員であった。
伊勢の海の玄関口である鳥羽は日和山に風待ちをし、天明 2年12月13日に誰ひとりとして予想もしない運命の待つ外洋へと乗り出していったのである。

遠州灘にさしかかったその夜、天侯が急変、海上は暴風が吹きつのる大荒れの海となった。
舵をへし折られ木の葉同然の中、帆柱を切り倒し積み荷を捨て転覆だけはまぬがれた神昌丸、あてどなく波間を漂流する結果となった。
光太夫以下乗組員は絶望のどん底に打ちひしがれ、神宮の御みくじにもすがりながら漂流すること七ヶ月、天明3年(1783) 7月アリューシャン列島の中の小島、アムチトカ島に漂着したのである。
その時、すでに幾八は病弱で息を引きとり、桶に詰められ水葬されていた。

3. アムチトカ島からイルクーツクヘ

上陸後、7名もの仲間を次々に失った光太夫たち漂流民は、島の原住民やロシアから来ていた毛皮商人らとの交流の中でなんとか命をつなぐとともに、島からの脱出を考える。
ロシアからの迎えの船も嵐で沈没したため漂流民とロシア商人たちは、材木を集め自力で船をつくり、在島4年の歳月を過ごしたアムチトカの生活に区切りをつけカムチャツカに向けて船出する。
その時、生き残った伸仲間は総勢9名となっていた。わらをもつかむ思いでカムチャツカに渡った一行は、厳寒のカムチャツカの生活に耐えながらも、一日もはやい伊勢への帰国を望んだが、当時のロシアは、イルクーツクにシベリア総督府が置かれており、光太夫たちの運命はその指揮の下にゆだねられていた。

このカムチャツカでは、慣れない生活、特に食物には殊の外不自由で餓死寸前の状態にまで追い込まれることもあったが、厳しい冬を死に物狂い耐え抜く中で、光太夫の聡明さと統率力はよく仲間をまとめた。ともすれば、挫折感にうちひしがれそうになる仲問をはげましてきたものの、このカムチャツカでも3名の病死者を出し、シベリア大陸のオホーツクに到着した時には6名になっていた。

その間の光太夫の様子をフラソスのジャン=レセップスは、旅行日録に書きとめている。
「名前はコーダイユ、彼はたいへん好奇心に富み、鋭い観察力を持ち、身辺に起こったことは正曜に日記に書き記している。ロシア語も理解でき、仲間によく配慮し、不機嫌になることはなく…………」など、光太夫のことを大いにほめる描写が見られる。
カムチャツカにおけるほんの三日間とされる接触にもかかわらず、レセップスは、光太夫という人物を実にあざやかに日録に記述し、ヨー一ロッパ諸国に伝えているのである。

オホーツクからヤクーツクを経てシベリアの中心都市イルクーツクまで、生き残り漂流民は、日本へ帰国できることを一途に念じなカがら、昼夜の別なく零下五十度を超える厳寒の原野を旅したのである。
その辛さは、何にも例えようがなく、このような自分たちの不運を嘆きつつも、ただ帰国というひとすじの光明をはげみとして生きぬいてきた六名の漂流民(光太夫、磯吉、小市、新蔵、庄蔵、九右衛門)たちは、やっとの思いでイルクーツクに到着した。
伊勢白子を出てから実に七年もの歳月が流れた寛政1年(1789) 1月26日のことであった。

4. キリルとの出会いと帰国実現へ

こうして困苦の果てにたどり着いたシベリア第一の都市イルクーツクではあったが、光太夫たちを待ち受けていたのは、道中凍傷にかかった庄蔵の片足切断をはじめ、九右衛門の病死、新蔵の大病であった。
そして、何よりイルクーツク駐在の総督への重ねての帰国願いも握りつぷされ、帰国許可が却下されるという絶望的な状態に加え、しつこく日本語教師になることを強制されたのである。
何としても帰国したいと願う光太夫たちは、日本語の教師になることを拒否すると、生活費は打ち切られ、万策つき暗たんたる日々を過ごさなければならなかった。

進退きわまった光太夫たちの前に、運命の救い主となったのが、その地でガラスエ場を経営し、日本にとりわけ関心の深かった自然科学者のキリル=ラックスマンとの出会いであった。
この出会いこそ、あくまで日本語教師になることを拒否し、何としても帰国の許可を得たいとする光太夫を勇気づけた。
らちのあかないイルクーツクの総督を見限り、六千キロも離れたペテルブルグに出向き、エカテリーナ女帝に直接帰国許可を願い出るという最後の切札に全てを託した。
キリルとの出会いがなけれぱ今日の光太夫はなく、この漂流話はイルクーツクで終わり、光太夫もその名を歴史に残すことはなかったであろう。

光太夫は・キリスト教に帰依し日本に帰ることを断念した新蔵、庄蔵、そして磯吉、小市を残し、ロシアの首都ペテルブルグを目指してイルクーツクを後にしたのである。寛政2年(1790) 12月22日のことである。
六千キロの道のりを一カ月余りでひた走り、寛政3年(1791) 1月28日に到着したロシア帝国の首都ペテルブルグで光太夫が目にしたものは、宮殿をはじめ、その壮麗豪華な都のたたずまいであり、光太夫にとっては、まさに驚きであり夢の世界とでもいうべきものであった。
人が生きるには極限の世界を漂泊し続け、故郷恋しさ家族恋しさから帰国への執念にとりつかれた光太夫は、加えてこのロシアの文化の素晴らしさを、何としても故国日本に、故郷若松に伝えなけれぱならないとの思いにもなったであろう。
それは光太夫という人物の成長を物語ってあまりあると想像できる。

ペテルブルグに着いて、キリルの献身的な尽力によりエカテリーナ女帝に帰国願いが提出された。
そして、待つこと四ヶ月、ツァルスコエ=セロの離宮で当世きっての啓蒙専制君主といわれ、ロシアのヨーロッパ化を推進してきたエカテリーナ女帝に謁見が許され、帰国への強い願いを直接申し出ることができたのである。
謁見は、女帝の「ベンヤシコ」(かわいそうに)の言葉で代表されるように上首尾に終わり、しばらくして光太夫たちの帰国願いが正式に許可された(寛政 3年8月27日)。
ロシアの地で故国にあててしたためた自筆の手紙の中で、日本に帰ることを「優曇華の花」(三千年に一度咲くというインドの想像上の植物)ともたとえてきた帰国が実現することになった。

5. 帰国の途へ

ペテルブルグを離れるまでの光太夫は、まさに賓客待過を受け、ロシアの文物や社会の仕組みにも触れるとともに、芝居見物や天文台、図書館、病院、銀行などにも案内された。
又、政府高官の家庭生活も経験するなど在京中に文化のいろんなものも目にしたのである。

さらに、離宮の御苑長ブーシュの妹のソフィアから聞いたロシア歌謡「ソフィアの歌」をまるで自分の身の上を歌っているようだと捉え、感激して日本への土産のなかにもち帰った。それは『北槎聞略』の中にも記されている。
さらには、光太夫は、エカテリーナ女帝の文化的事業にも協力して世界言語の比較辞典の改定に参与したぱかりではなく、ロシア滞在中に日本地図も描いている。
やがて、女帝や知り合った人々から多くの銭別をもらい、寛政3年11月12日ペテルブルグを後に念願の帰国実現を土産にイルクーツクに向け出発した。
途中モスクワを見物し、同年12月21日新蔵、庄蔵、小市、磯吉の待つイルクーツクに戻った。
運命の岐路に立たされたなつかしのイルクーツクでは、日本語学校の教師としてロシアに残留することとなった片足切断の庄蔵や新蔵と、二度と生きて会うことのないつらい涙の別れを惜しんだ。

そして、往きとは逆のコースでシベリアの大地を一路ヤクーツクからオホーツクヘと旅した。
オホーツクでは、光太夫たちをこの地まで送ってくれた命の恩人キリル=ラックスマンの恩情に感謝し、苦節十年にわたるロシア漂泊の旅にピリオドを打った。
キリルの息子アダム=ラックスマンが使節となって光太夫ら漂流民をのせエカテリーナ号は、オホーツクを日本に向けて出発したのである。

6. 根室帰還と日露交渉

寛政4年(1792) 9月3日、エカテリーナ号は北海道、根室の北バラサン沖に停泊、5日早朝には根室に到着し、そして、弁天島付近に錨をおろした。
十年にわたる漂流、漂泊の旅を終えて夢にまでみた故国の地に足を踏み入れることができたのは、まさに奇跡にも等しい帰還であった。
アダム=ラックスマンは、さっそく松前藩役人に来航の理由を述ぺるとともに、直接江戸への航行を希望している等の内容の書簡を提出した。
それを受けて松前藩は、こうしたラックスマン渡来の報せを急ぎ江戸へ進達すべく急使を派遣したのである。

寛政4年10月19日、ラックスマン渡来の報を受けた幕府の筆頭老中松平定信は、対策を協議し、沿海の防備に意を払うとともに来航したロシア使節を根室に留め置き、丁重に応対するよう指令を出した。また、ロシア使節と交渉にあたる宣諭使として、目付の石川将監、村上大学の両名を松前に派追することを決定した。
一方、根室入港を果たしたラックスマンは、宿舎建設等の準備をし、幕府の指令を待つベく根室に越冬することとなった。
ロシア側としては、光太夫ら漂流民を送還するこの機会に、鎖国日本と交渉を持つことで通商関孫の樹立を望んでいたことは、エカテリーナ女帝のイルクーツク総督にあてた指示にも明らかにされておりよく知られている。
漂流氏の送還は、あくまでも手段であって渡来の主目的は日本との通商関係の樹立にあったのである。
しかし、使節アダム=ラックスマンは、根室や松前における交渉では漂流民送還を正面に掲げ、本来の目的である通交、通商関係の樹立のことは背後に伏せようとする姿勢をみせるのである。

年も明けて寛政5年(1793)の春4月2日に、漂流民の小市が壊血病で46才の生涯を閉じた。
幕府は、せっかく祖国の地を踏みながらのこの不運をあわれんで、後に妻のけんに銀十枚と遺品を下げ渡した。
その遺品の一部は、現在若松小学校の光太夫資料室に保存展示されている。

ラックスマン一行が、初めての日露交渉に臨むため根室から移動して松前に到着したのは寛政5年6月20日であり、翌21日交渉場所の松前藩浜屋敷に赴き、幕府役人と第一回の日露交渉を行ったのである。
その後、会談は2回にわたって行われたが、幕府は「請取証」を届けて、光太夫、磯吉の二人の漂流民を受け取るとともに、ラックスマン提出のロシア側の公文書は受理することはせず、希望であれぱ長崎に出向いてほしい旨を伝えて長崎入港許可証(信牌)を与えている。
この信牌の写しも光太夫資料室に保存されている。

こうして長崎入港の「信牌」を得て、一応の面目を保ったラックスマンは、7月16日にオホーツクに向かって帰っていった。
後になってレザノフが使節となって長崎に来航し、「信牌」をもって日本との通商関係樹立を第一の目的とLて交渉を求めることになる。

7. 漂民御覧と薬園留め置き

松前において日本に引き取られた光太夫、磯吉の二人は、幕府役人に付き添われて江戸に送られた。江戸到着は、寛政5年8月工7日である。
その後の二人を待っていたものは、かれらが江戸時代におけるヨーロッパの国からの最初の帰還民であることもあって、度重なる取調べであった。
そして、翌9月18日には、江戸城内の吹上上覧所へも召し出され、将軍家斉、老中松平定信らの前でロシア漂流中の子細について訊問がなされた。

その時の様子は、上覧の場に同席した桂川国瑞甫周が『漂民御覧之記』に記している。
それによれぱ、光太夫の装いは髪を三つに編んでうしろに垂らし、黒皮の長靴をはき、胸にはエカテリー女帝からいただいた金メダル、そして筒袖の外套…磯吉も靴の他はほぽ同じであった。
その出で立ちは、とても日本人とはみえずオラソダ人をほうふつとさせるものであった。
将軍の前で役人が聞き糾す見聞体験を、光太夫は実にそつなく、そして当たりさわりのないように慎重に受け答えをしている。
桂川甫周は、上覧後も時々光太夫を訪ねて詳しく事情をききとり、『北槎聞略』11巻としてまとめたのである。
今日に残るこの『北槎聞略』は、光太夫を語る資料であると同時に、当時のロシアの風俗習慣等について詳しく書かれている貴重な生きた史料として、最近その価値が評価されるに至っている。

幕府は、光太夫、磯吉二人の取り扱いについては、寛政6年(1794) 6月になって、長年の苦難の末に帰国したことは賞すべきこととして褒賞金は与えるが、特別の事情あって今回は故郷若松へは帰さず、江戸番町薬草園の住居に手当金を与えて留め置くとしたのである。
こうして光太夫らは、みだりに外国の様子を語ることに制約をうけながら薬草園で暮らすことになった。
光太夫らの薬草園での生活については、詳しくは判っていないが、光太夫は妻を迎え一男一女をもうけている。息子の亀二郎は、後に大黒梅陰と称する儒学者となっている。
又、光太夫らは軟禁同様の生活を送っていたとする見方もあるが、行動については、かなりの自由が認められたようである。

大槻玄沢ら蘭学者の集まりとしてよく知られている「オランダ正月」芝蘭堂新元会に出席Lたり、多くの蘭学者と交渉を持ったようである。
光太夫のような優れたロシア通を蘭学者が放っておくわけがなかったのであろう。

8. 光太夫の一時帰郷

一方・磯吉は故郷若松への一時帰郷が許されている。寛政10年(1798) 12月18日から翌年1月17日までの30日間ほどである。
若松に帰った磯吉は、南若松の心海寺の住職の実静にロシア漂流話を語って聞かせている。
心海寺には、実静が聞き書きしたものが『極珍書』と称 Lた光太夫漂流実録が所蔵されている。このとき、光太夫もほどなく若松に帰ってくるであろうことを磯吉はほのめかしているのである。

こうして、光太夫は磯吉に遅れること4年、享和2年(1802) 4月に一時帰郷が許されている。
数年前まで、光太夫は一度も故郷の土を踏まなかったというのが定説であったが、昭和61年8月南若松の倉庫から発見された古文書によって、この定説はくつがえされた。
光太夫は享和2年4月23日から6月3日までの40日問、勘定奉行の預りとして帰郷していたのである。

故郷若松に戻った光太夫は、若松逗留中に肝煎の中川喜右衛門、甥の彦太夫に付き添われて伊勢参宮を行い、また白子の一見勘右衛門の家も訪ねているのであるが、出帆後20年、光太夫の胸中は察するに余りあるものがあったであろう。
関の地蔵にも参詣し、 40日閲の帰郷を終え東海道を下って江戸に戻った。
こうして念顕の帰郷を果たした光太夫は、磯吉と共に番町薬草園で余生を送ることとなる。

9. 光太夫の功績

光太夫の菩提寺である若松の緑芳寺には遺品が伝わっている。
また、あちこちに残されている遺墨は、江戸で余生を送る光太夫が求めに応じて筆をとりロシア文字などを書いたものであろう。
光太夫が漂泊の旅を続ける中で覚え知ったロシア語、そして知り得たロシア・ヨーロッパの情報等は、桂川甫周は言うに及ばず、仙台藩大概玄沢、下総国古河藩の家老鷹見泉石、幕府天文方足立佐内ら多くの人と交渉をもつ中で伝えられた事実ひとつとってみても、開国への足音がしのび寄る日本にもたらした影響は大きいものがあったと考えられる。

それにしても、今もドイツのゲッティンゲン大学に残る光太夫の手紙は、故国にあて数通したためた手紙のうちの一通であり、彼の苦しい胸の内を切々と吐露した貴重なものである。
また、光太夫が日本から持参したであろう『節用集』を参考にして、ロシア側から求められて作成した日本地図等、光太夫の遺品を知るにつけても、光太夫の優れた才能と教養が偲ばれるのである。苦節十年の旅を続ける中を常に持ち歩いたといわれる筆墨で、こまめに日記を記すなど、その人柄は一介の船乗りではなく、円満な知識の持ち主として品格を身に付けていたと想像されるのである。

10.波乱万丈の生涯

こうして、思わぬ数奇な遅命にもてあそばれ波乱万丈の生涯を送った光太夫は、薬草園入りから実に34年を経て、文政11年(1828) 4月15日、享年78才の生涯を閉じたのである。
その亡骸は、江戸本郷興安寺の墓地に埋葬された。また、磯吉は天保9年(1838) 11月15日、73才で死去して同じく興安寺に葬られた。しかし、現在のところ両名の墓石は見当らない。
なお、南若松東墓地には、漂流後の二年目に、三回忌の追善供養のため伊勢松阪の商人によって供養碑が建てられた。
又、亀屋が光太夫の実家であろうが、養家先であろうが、同じく山中墓地に存する亀屋の墓石は、これこそ光太夫の生まれ故郷を象徴するものとして、顕彰に値するものがあると言える。
ここに、光太夫の帰国200年にあたり、日本とロシアとの国際文化交流の先駆者として、改めて認識を深め、歴史の一頁を画した大黒屋光太夫の遺徳を偲ぱずにはおれないのである。

※出典:あけぼの 大黒屋光太夫写真資料集