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  • 伊勢漂民 大黒屋光太夫物語
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郷土資料館 - カラー図版解説

1. 漂民御覧の図 個人蔵

漂民御覧の図 寛政5年(1793) 9月18日、江戸城内吹上御殿で11代将軍家斉をはじめ諸臣による、いわゆる「漂民御覧」が行われた。
正面広縁奥上段の間の簾の奥には、将軍、その左側に端座するのが老中松平定信、図左側の張出した部分に座っている四人の中の左端が、蘭学者桂川甫周(国端)であるといわれている。

2. 女帝 エテカリーナ二世像 『北槎聞略』

女帝 エテカリーナ二世像 この図は、国立公文書館内閣文庫所蔵の『北槎聞略』軸物に描かれているものである。
図の説明に「カレチン掛版 當今女王エテカリナ像」とある。
原画は油絵で、光太夫が帰国の際、額縁をはずして持ってきたのではないかと言われている。

■エテカリ-ナ二世
ロシア女帝(在位1762~96)。ドイツ貴族の娘。1745年ロシアのピョ-トル三世と結婚。
1762年、ク-デターニより夫を殺害して即位した。
啓蒙専制君主として貴族の保護と地主の権力擁護に尽くすなどして農奴性貴族国家の最盛期をもたらす。
また対外的には、ポ-ランド分割や露土戦争などで領土の拡大に努めた。

■北槎聞略
寛政4年、ロシアから帰国した大黒屋光太夫から聴取した見聞に基づいて、幕府の医官、桂川甫周(国瑞)が著したロシア事情の解説書である。

3. 光太夫・磯吉の姿絵 早稲田大学図書館蔵『奇観録』

光太夫・磯吉の姿絵 『漂民御覧の記』によると「この時、光太夫(左)は42歳、髪を三つに組んで後ろに垂らし、それを黒い絹布で包み、黒い氈笠(帽子)を脇にはさみ、襟には金製の小さい鏡のようなもの(金メダル)をかけ、桃色の銀モゴル(銀モ-ル)製の筒袖の外套 (上着)には、赤い玉の衣紐(ボタン)が付けられている。
また、同じ織物の袴(ズボン)をはき、紺地の錦(織)の下着をつけ、足には白メリヤスの上に黒いハルシャ(ペルシャ)革の深沓(長靴) をはき、右手で魁藤の杖をついていた。
磯吉(右)は28歳(一行中で最年少者)、同じように髪を組み、銀製のメダルをかけ、笠(前出)を脇にかかえ、紺ラシャの上着に銀ボタンを付け、下着は狸々緋(真赤色)に黒い縁をかけたものを着て、黄黒間道(黄と黒の縞模様)のビロ-ドの袴をはき、白メリヤスの上に深沓(前出)をはいていたが、これは光太夫とは違い半分から上は柿色の革で継がれていた。
二人とも笠(前出)を地面に置き、頭を下げて床几(こしかけ)に座った様子は、とてもこの国の人間とは思えず、まるで紅毛人(オランダ人)のようであった」と記されている。( )内は筆者の注。

4. ロシア船 エテカリ-ナ二世号 早稲田大学図書館蔵

ロシア船 エテカリ-ナ二世号 図の右上部に書き込まれた解説を転記する。
「寛政四年九月五日 東蝦夷地子(ネ)ムロ(ヘ)着岸ノ魯西亜松(船)翌年大命ニヨリテ松前東在箱館エ(ヘ)来ル人数四十二人 外ニ日本伊勢国ヨリ漂流セシ三人 魯西亜国王ノ命ニヨリ右ノ三人ヲ送リ来ルナリ」。カラペレ(巨船の意)
「艫ニ書キタル文字ハ神徳ナルエテカリ-ナ-国王ノ名ナリー千七百九十一年六月 七日ニ此舩を製作スト艫ニ両頭の鷲ヲ画ク 国王ノ印ナリ 窓は硝子ヲ以テ張ルナリ」

5. 根室における光太夫とロシア使節 天理大学付属図書館蔵

寛政4年(1792) 9月、光太夫らとロシア使節ら41人を乗せたエテカリ-ナ二世号は根室工に到着後、この地に上陸し、営舎を急造して冬を越した。
根室における光太夫とロシア使節
この絵は商館における光太夫とロシア使節らが描いたものといわれる。
右端の人物が特派使節のアダム=ラックスマン(陸軍中尉)その左がイルク-ツク商業共同組合長で水先案内役をつとめたシャバーリンか。
一人おいて右手にグラスを持っているのが、船長ロフツォ-コフ(少尉補)一人おいて黒犬の右が光太夫、左が通訳のトウゴル-コフ(軍曹) であろうといわれている。

6. 小市の遺品 大黒屋光太夫資料室蔵

小市の遺品 根室で病死した小市の遺品は、光太夫らが江戸で軟禁生活に入った寛政6年(1794) 9月、伊勢若松に送られている。
後家けんに、銀貨10枚とともに59点(うちロシアから持ち帰ったもの47点)の遺品が下げ渡され、のち大庄屋加藤要助が保管していたようである。
その後、小市の菩提寺である地元若松の宝祥寺で追善供養が営まれ、遺品も展示公開された。
その大半は散逸したが、一部が若松町学校の資料室に保存・展示されている。
櫛、さじ大、さじ小、ナイフ、帽子襟章(2)、バッチ、靴じめ金具、腕、ひげあげ、きせる(2)、靴、以上13点

7. 名古屋大須における小市遺品展 図録『猿猴庵合集 六編』ヲロシャ器物 紙の博物館蔵

名古屋大須における小市遺品展 寛政7年(1795) 8月9日から29日までの21日間、名古屋大須七ツ寺内一乗院で行われた小市遺品展の図録である。
描いていたのは、尾張藩士、高刀猿猴庵種信(1759~1831)で、鮮やかな色彩とともに綿密な描写、くわしい書込みがなされ、25ページのうち『ヲロシャ器物』は19ページにわたっている。

8. 松前城下をゆく馬上姿の光太夫 東洋文庫蔵『魯西亜国漂舶聞書』

松前城下をゆく馬上姿の光太夫 箱館から松前に至る道中風景ーひとり駕籠に乗るアダム・ラックスマン、日本の猛暑に難儀しているロシア人たち、晴れ着を着て一行を出迎える見物人たち、松前城下に入るや飾り立てた日本の馬に乗りかえ先頭をゆくラックスマン、その後をゆく馬上姿の光太夫と磯吉ー

9. 光太夫自筆の日本地図 ーアッシュ番号285ー ゲッチンゲン大学図書館蔵

光太夫自筆の日本地図
光太夫がロシアに残した自筆日本地図のうちの一枚で、ペテルブルグで描いたもの。
ドイツ人、アッシュ男爵が手に入れ、彼の母校ゲッチンゲン大学に保管されていたが、平成5年1月鈴鹿市文化会館で開催された『大黒屋光太夫帰国二百周年記念展』の際、他の2枚の日本地図、自筆の手紙とともに公開展示された。
左脇には「天明十一年三月下旬 日本伊勢国白子 大黒屋幸大夫筆」と彼の手で墨書され、印が二個押されている。
上が知、下が和忠と読めるが、意味は今のところ不明である。
(タテ65.0cmXヨコ138.0cm)

10.神昌丸組合員供養費 鈴鹿市若松東墓地

神昌丸組合員供養費 神昌丸出帆の2年後の展名年(1784)、大黒屋の菩提寺、南若松村心海寺墓地(南若松東墓地)に、船の所属する江戸大伝馬町組の長谷川氏(松阪出身)によって建てられた。
組合員のうち、若松出身者は光太夫を含めて12人、他は志摩小浜2人、桑名1人、伊豆1人、省かれている上乗り、作次郎を合わせて17人である。

11.大黒屋光太夫ブロンズ像 近鉄 伊勢若松駅前

大黒屋光太夫ブロンズ像
像は昭和62年6月、鈴鹿市立若松小学校創立100周年に際し、「記念事業実行委員会(会長 浜中克巳)氏」が稲垣克次氏(現日展審査員)に委属して製作されたものである。
長い間埋もれていた郷土の先人を再発掘するとともに、「今の子どもたちに、光太夫のような大きな夢を持たせたい、優れた人間性に触れさせたい」そんな願いを込めて作られたのである。
製作
稲垣克次
材料
 
本体:ブロンズ
台座:黒御影石
高さ
 
本体:1.75m
台座:1.8m
題字
故 山口喜兵衛「大黒屋光太夫の像」

12.井上靖文学碑とモニュメント『刻の軌跡』 鈴鹿市白子新港緑地公園

井上靖文学碑とモニュメント『刻の軌跡』 鈴鹿市制発足満50周年、光太夫帰国200周年を記念して、平成4年4月に新装となった鈴鹿市白子新港緑地公園に二つの記念碑が建てられた。

※出典:あけぼの 大黒屋光太夫写真資料集